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西本願寺・上海別院

  上海には今でも日本人と関係の深い歴史的建造物が多く残されている。その多くは、上海人の間ですら忘れられているが、今でも保存建築として指定を受けているものも多い。今回は、乍浦路455号、439号に残る西本願寺・上海別院と本圀寺を訪れてみた。

 

  そもそも、浄土真宗本願寺派の中でも、東本願寺派はすでに1876年にイギリス租界地である北京路499号に上海分院を建設している。日本・中国・インドによる東アジア仏教聯合を唱え、日本の仏教を中国に伝え、上海への浄土真宗布教に努めたのが小栗栖香頂(おぐるすこうちょう)1831-1905年)である。北京滞在時に当時の様々な生活や文化、習慣を記録した日記は、現代でも多くの学者によって研究されている。その当時、中国の仏教界には閉塞感があり、日本発の布教活動も受け入れられると考えたようだ。1896年に東本願寺派は台湾の台北、台南、さらに厦門にも分院を作り、北京・南京・青島・長春・汕頭・蕪湖へも広がっていった。 

往年時代の西本願寺・上海別院

 

 日本の宗教家の中国での布教活動は、これまでの研究[i]で、日清戦争までは浄土真宗東本願寺派が行っていた程度であったが、日清戦争後は、西本願寺派も加わり、日本の各宗派が中国にやってくるようになった。中国大陸や朝鮮半島などから日本に伝わった仏教が、逆に日本から中国へ伝わったという現象は、学術的にも興味深いと言われている。ただ、時代背景的に戦争などが絡み合っているため、日本人のこうした布教行為の目的については複雑な問題が多いのも確かだ。明治維新以降、西洋文化が日本に流入し、キリスト教などの布教が徐々に広まってくるなか、小栗栖香頂は日本・中国・インドのアジアの宗教が団結することにより、キリスト教による仏教への浸食を少しでも抑えようとする目的もあったのではないかとも考えられている。


[i] 肖平《近代中国佛教的复兴——与日本佛教界的交往录》

 1906年(光緒32年)、西本願寺派は、上海の文監師路(現在の塘沽路)114号に、上海別院を開設、その後1931年(民国19年)に現在の乍浦路に移転した。 しかし、日中関係が時代とともに悪化し、1931年の上海事変以降、日本の様々な仏教団体の中国での活動は、主に旧日本軍とのつながりが深まり、戦争で死亡した日本人兵士の葬儀や、遺族への対応などへ変わっていったという。

1931年~1945年の期間中、この西本願寺上海別院には宗教を巡る多くのドラマがあったことだろう。第2次世界大戦以降は、敵国日本の宗教施設として、取り締まりの対象となり、今では一般市民の住宅として使われている。1999年に上海市優秀歴史建築に指定された。

アーチが美しい

獅子の象があったはずが。。

 さて、上海の下町の雰囲気が色濃く残る虹口区乍浦路周辺だが、そんな中に一見独特な色彩を放っているようなオーラを発している建築物がある。それが、乍浦路455号にある西本願寺である。インド風の建築と言われているが、設計は岡野重久で、島津工作所が建設した。外見は築地本願寺を模したようで、確かに規模が違うが、大きな半円形の丸屋根など言われてみれば似ている。

外壁の様子。腰の部分に白象の彫刻があった。

  実際に見てみると、通りにそった壁面のその細かい彫刻に目を奪われてしまう。一部、文化大革命の時に破壊されているが、それでも当時の面影が一部残っている。蓮の花をモチーフにした彫刻には、さまざまなパターンがあることがわかる。塔の上には、獅子の彫刻があったそうだが、今は無くなっている。また、今は平らに埋められている壁面部分には、熱帯雨林に出現する白象をイメージした彫刻があったそうだが、これも残念ながらなくなった。北側の入り口は、なぜか現代的なガラスで覆われていて、中は全く見えなかった。それもそのはずで、もともとカラオケなど娯楽施設として使われていて、その後は虹口区のフィットネスクラブになっていたらしい。当時の面影を知るよしもない。


本圀寺(乍浦路439号)

 さて、この西本願寺のすぐ近くには、日蓮宗の本圀寺があった。こちらは、寺院建築の様式とすぐわかる。中国人の間では、こっちのほうを西本願寺と勘違いしている人が多いほどだ。光緒25年(1899年)に南潯路1号に建設されたが、その後1922年(民国11年)に現在の場所に移転された。大正時代には500人あまりの信者がいたと言われている。現在は民家となっているが、大した保存処置もとられていないため、むしろこちらの建物のほうが行く末が心配だ。

日本式のオリジナルの姿を残している

 建物の入り口で編み物をしていたおばあちゃんに聞いてみると、今住んでいる人の多くは1953年に引っ越してきたようだ。30世帯が住んでいるとのこと。引っ越しした当時、中には畳がたくさんあり、天井がすごく低く感じられたそうだ。日本人がここに住んでいた面影がたくさん残っていたらしい。引っ越してきた当初、日本人が残していった骨壺をたくさん整理したそうだ。あれから50年以上経った現在でも、多くの日本人が訪れる場所でもある。

壁の通気口が特徴

 さらに別の住人の話を聞くと、建物の中には井戸もあり、その当時日本人の住民たちが使っていた。しかし、水の汚染が進み今では埋めてしまっている。埋めるとき、井戸の底から沢山の日本のものと思われる陶器類が出てきたそうだ。

 住民の話では、日本人が住んでいた住宅にはさらに外観上の特徴があるのだという。例えば、写真にあるような1階と2階との間にある通気口がそうだという。湿気の多い上海に気候に対応した設計となっている。さらに、その当時の木の格子窓も残っていて、この地を再び訪れた元住民の日本人の和尚さんが、オリジナルの姿に残っていることに感動したといっている。

 といっても、多くの上海人からすると、日本人が勝手に建築した建物に過ぎず、特別な感情がある人は少ない。そして、いつか取り壊される可能性もないわけではない。そんな中でも、今も脈々と複雑な歴史を物語っているのだ。

【データー】上海市虹口区乍浦路455号、439号(武進路付近)地図

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20086月記 江湖夜雨山之内 淳 


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