上海虹口区の長陽路にある摩西会堂は、上海に現存する2カ所のユダヤ教会堂の一つで、2007年3月より虹口区人民政府により修復され、2008年9月より一般公開されている。修復にあたっては、発見された当時の設計図をもとに行われ、1928年当時のオリジナルの姿をよみがえらせている。
この再現された摩西会堂では、当時のユダヤ教会堂としての様子を再現した以外にも、第2次世界大戦中に、多数のユダヤ人をヨーロッパから脱出させた中国の外交官、何鳳山や日本の外交官、杉原千畝の故事も紹介されている。実際、多くのユダヤ人が、日本経由で上海に逃れてきている。それほど、上海の租界地におけるユダヤ人コミュニティーは大きかった。
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摩西会堂は、1907年に建設されたが、1928年に現在の長陽路(当時は華徳路と呼ばれた)62号にロシア系ユダヤ人によって移築された。第2次世界大戦中は、ユダヤ人の宗教活動の中心として使われた。
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摩西会堂は、3階建ての構造で、1階ホール部分は男性の礼拝堂となっていて、6脚の長椅子が設置された。その正面には祭壇が設置されている。話によると、女性は2階から正面に向かって礼拝したそうだ。会堂全体は、祭壇正面が南向きに設計されているが、これはユダヤ教の聖地であるエルサレムに向かってお祭りするという意味があると解説員が説明してくれた。 |

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2階部分は、当時は女性の礼拝堂として使われたが、今はユダヤ人の人たちが当時使った生活用品が展示されている。また、2階部分には140枚あまりの写真などの展示があり、当時、上海におけるユダヤ人の生活の様子を理解することができる。ユダヤ人にとって、その当時の上海がいかに重要な意味をもつものだったか理解できる。上海市政府も、2004年に摩西会堂を上海市優秀歴史建築に指定した。 |
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ユダヤ人が使用した生活用品 |
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会堂の3階は、会議室のスペースとなっているが、壁にはイスラエルのイツハク・ラビン前首相の摩西会堂訪問時の写真が掲げられていた。
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イスラエルのイツハク・ラビン前首相
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ろうそく立て
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ユダヤ人ゆかりの工芸品も展示されていた
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中国駐オーストリア総領事何鳳山博士、日本駐リトアニア領事館の杉原千畝領事のエピソードが書かれたコーナー |
今回、新たに設置された展示スペースも見逃せない。当時の画像などをふんだんにつかって、その当時、上海にやってきたユダヤ人たちの生活の様子が細かく紹介されている。主に、5つのテーマから構成されていて、上海への避難の様子や、新たな新天地をもとめて旅立つユダヤ人についても書かれていた。その中には、上海に避難してきたユダヤ人難民の一人Evelyne・Robinsonが『上海ユダヤ人の隔離区』に記した一段落は、印象的だった。
「・・・・明日から、私たちはまったく知らない街で生活することになる。国情もしらないし、言葉すら分からない。気候もどんな人たちがいるのかも知らない。しかし、そこでは私たちは安全と自由なのだ。」
その当時、上海市には4万人のユダヤ難民がいた。このうち、数千人ほどが上海を経由して第三国に出国したが、1941年12月の真珠湾攻撃が始まった頃でも、まだ2.5万人のユダヤ人が上海にいたという。 |
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