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今や国際化の進んだ大都市・上海は、東方のパリとも呼ばれ、外灘や南京路、東方明珠塔などはつとに有名だ。しかし、古代の上海は一体どんな様子で、どんな都市構造をしていたのか?
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実は上海人にもあまり詳しい人はいない。
上海語で「老城廂」という単語がある。上海の長い歴史や、昔の上海人たちのライフスタイルがよく表れている言葉だ。
では
「老城廂」とは何だろうか?かつて中国の街はどこもスタジアム状になっており城壁に囲まれていた。上海人は城壁の内側を「城」、外側のにぎわっているところを「廂」と呼んだ。城壁の撤去が進み、「城」と「廂」という概念も消えていったが、この一区画を示す単語、つまり
「老城廂」だけが残ったのだ。
1553年、松江の府知事は上海を囲む城壁を建築した。倭寇の侵入を防ぐための突貫工事で、わずか三ヶ月で完成した。上海の城壁は江戸城よりも100年ほど遅れて作られたことになる(太田道灌が江戸城建築を行ったのは1457年)。
筆者は通りを散策中偶然に出くわしたのだが、上海城壁を見たのはこのときがはじめてで大変驚いた。会社で上海人の同僚に尋ねてみたが、行ったことがないという。
ためしに地下鉄駅で交通整理をしている市の職員に聞いてみることにした。
筆者:すみません。城壁にはどっちの方角へ行けばいいですか?
職員:どこの城壁?
筆者:上海の城壁ですけど…
職員:知らないね。豫園(中国語で「城隍廟」)のこと?
筆者:いえ、大境路の城壁です。
職員:ああ、城壁は知らないけど、大境路なら分かるよ。あそこを曲がって…
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この職員と話していた場所は城壁から1キロ足らずのところだ。明らかにほとんどの上海人がこの城壁の存在を知らないようだ。ということはつまり、ほとんどの中国人が知らないと言うことだ。
古代上海の城壁とは?
資料によれば、上海の城壁は周囲4.5キロ、高さは8メートル。建設当初は、大東門(朝宗門)、小東門(宝帯門)、南門(跨龍門)、西門(鳳儀門)、北門(晏海門)の5つの門があった。
明朝末に小南門が増設された。清の咸豊年間に
秘密結社
「上海小刀会」が蜂起したため、さらに障川門(新北門)が追加された。
城壁の外側には広さ6丈(約20メートル)、深さ1.7丈(約5.6メートル)、周囲1500丈(約4950メートル)余りの堀がある。堀には葦が一杯に生えており、秋にはさらさらと風情があることだろう。
…上海城壁は黄浦江の西側にあり、住所は黄浦区となっている。城壁の周囲は近代以前に上海人が居住していた場所。100年以上をかけて、上海は小さな地方都市から中国最大の都市に生まれ変わり、面積も人口も当時の数十倍に膨れ上がった。

清朝末期の上海城壁の図
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新北門(障川門)模型 |
老北門(晏海門)模型 |
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大南門(跨龍門)模型 |
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城壁の各門に路線バス「11路」のバス停がある
上海の城壁はなぜ取り壊されたのか?
清朝最後の年、上海経済は急速な発展を遂げた。上海の知識人たちは古い城壁は市内の交通を阻害し、経済の発展に影響すると考え、取り壊しの上奏文を提出した。しかし一部の知識人たちは猛烈に反対し、「城壁保存会」を設立、なんとか一命を取り留めた。しかし最後に「取り壊し派」が「保護派」に勝利、1912年7月南側半分をまず取り壊し1913年に北半分を取り壊した。実に2年の歳月を費やしたことになる。
上海を囲む360年の歴史をもつ城壁は歴史の中から消えた。これ以降、租界と中国人居住区を分けていた仕切りが消え、典型的な近代都市としての上海へ生まれ変わっていく。
左:1980年代の城壁及び堀 右:清朝末の上海城壁
現在の中華路、人民路は昔のお堀
上海地図を見ると、黄浦区の黄浦江と地下鉄8号線の間には、西側に中華路、東側に人民路がある。この二つの道路はお堀を埋める際にできたものだ。
城壁取り壊し工事の際、城壁のレンガを使って堀を埋めていった。最後には堀は二つの道路になり、「中華民国」からとってそれぞれ「中華路」「民国路」と名づけられた。中華人民共和国成立後「民国路」は「人民路」に改められた。
上海には内環状線、外環状線の二つがあるとよく言われるが、実際にはもう一つ、「城壁環状線」があるのだ。

GOOGLE
マップ
はこちら
中華路の写真:地面はすべて明、清時代のレンガが埋まっている。
大境閣:最後の城壁―古代上海を守り通した50メートルの城壁
城壁の上に「大境閣」があるのはなぜだろう?
明朝時代、倭寇終息後に安寧の県政府は4台ある弓射用の高台にそれぞれ丹鳳楼、観音閣、真武廟、大境閣を作った。大境閣は中に関帝廟も備え、道教寺院の一つになっている。
当時城壁取り壊し、堀の埋め立て工事の指揮系統が大境閣内に設けられていたこと、また保存を望む声も高かったことから、大境閣とこの部分の城壁は、取り壊しを免れることになった。1992年から3年かけて、31戸の住居を立ち退かせ、900万元が費やされて、この城壁と大境閣が修復され、観光地として開放された。

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城壁の側面 |
城壁正面 |
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姫垣と旗竿 |
「咸豊3年、上海城壁レンガ」と刻まれている |
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屋根にある護衛兵の像 |
「信義千秋」(「信義は不滅」) |
上海の城壁は歴史の中に埋没し、今では「取り壊すべきか否か」という議論すら起こらない。1950年代、60年代当時の北京の城壁とは事情がまったく異なる。とどのつまり北京の城壁は文化的価値・観光用価値が数倍あるのだ。もし、中国文化の中心である北京で古い城壁が失われたら、それは大変な損失となるだろう。逆に中国経済の中心であり、近代都市である上海で古い城壁を保存しようとしなかったことは、特に残念なことではないのかもしれない。しかし、もしこの城壁が残っていたなら、今の上海はさらに味わい深いものとなっただろうに。
日差しが楼閣の青い屋根瓦を明るく照らしており、城壁周辺の青竹がかすかに揺れていた。寂れた雰囲気だった。チケット販売兼守衛係のおじさんと話したところ、「小刀会将校が大境閣で清の兵士たちと戦ったこと」や「上海のお堀の広さがどのくらいあったか」などについてもあまり知らないことがわかった。
中国は文化大国である。にもかかわらず文化財を保護せず、国の文化を守ろうとしていない…
◎住所:
上海市黄浦区大境路269号(在中華路上) 【 地図 】
◎交通:
路線バス: 公交930、220、911、304、736、11、方川専線等で小北門駅下車
地下鉄:8号線大世界駅また老西門駅下車、中華路へ徒歩数分。
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(2009年6月記)
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